西城秀樹さんのいろんな「日本初」 あなたは知っていますか?

70年代多くのヒット曲を出し、野口五郎さん 郷ひろみさんとともに「新御三家」と呼ばれた西城秀樹さんが心不全のため死去しました。63歳でした。

広島生まれ、小学校時代に柔道を習い、学生の時は水泳部でスポーツ万能。成人後の趣味はスキューバダイビング、高校時代ジャズ喫茶でバンド出演時にスカウトされ上京。「ワイルドな17歳」のキャッチフレーズで72年に歌手デビューを果たしました。

73年、「情熱の嵐」がオリコン週間チャートに初のベストテン入りを達成し、一躍トップアイドルの仲間入り。

渾身の力を込めて歌う絶唱型で、「ワイルド」という概念を持ち込み、歌声と全身のパフォーマンスが斬新。ロックヴォーカリストの先駆者と言われました。

 

西城さんはポップス歌手としては史上初、73年 74年連続2年「日本レコード大賞」を受賞しました。『第25回NHK紅白歌合戦』にも初出場。その後もヒット曲を出し続けました。78年 『東京音楽祭』国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞、世界大会にも出場を果たしました。

幼少の頃に父の影響で洋楽をよく聞き、79年自身が選んだ「YOUNG MAN」のカバーソングが大ヒット、自身が考えたYMCAの人文字が社会現象にもなりました。身長181cmのイケメンの西城さんは音楽以外にテレビの連続ドラマや映画にも出演しました。

西城秀樹さんが作り出した「日本史上初」数多くあります。

「曲に合わせて振付しながら歌う」。当時のアイドルは不動の姿勢で歌ってたので女性を虜に。
「スタンドマイクでのパフォーマンス」。ロッド・スチュワートとジェームス・ブラウンからヒント。
「日本人ソロ歌手として日本武道館でのコンサート」
「日本人ソロ歌手として野球場でのコンサート」
「ゴンドラでの演出」
「ヘリコプターでの演出」

「ペンライトの使用」
「レーザー光線による演出」
「ファン参加型のコール&レスポンス」など

その他に、たくさん出演した広告の中で12年間も継続したバーモントカレーのキャッチコピー「ヒデキ 感激」が大人気になりました。

また、「ウォークマン」がヒットになったのは西城さんがウォークマンを聴きながらローラースケートをしている写真が週刊誌に掲載されたことがきっかけだそうです。

浅田美代子さんを街頭でスカウトし、コンサートステージに乱入したファンの岸本加世子さんをもスカウトしたなど、新人発掘にも力を入れていました。

2003年 ディナーショーで訪れた韓国で1度目の脳梗塞を発症。ディナーショーで訪問した韓国での出来事で、一部声帯の神経が損傷したため、その部分の周辺の神経を刺激するボイストレーニングを懸命に行い見事に回復しました。同じような患者への役に立ちたいと闘病体験を本にしました。それに関する講演も積極的に行い、2006年シングルを発売にこぎつけました。

2011年 2度目の脳梗塞を発症。今回は右半身不随の後遺症が残ったが水中での運動を取り入れ、懸命にリハビリを行った結果再びステージに立つことができました。5月16日夜、急性心不全のため死去。

常に前向きにチャレンジし、諦めない精神の持ち主の歌声は同じ時代を過ごしてきた人々の中にずっと残っていくでしょう。

 
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