現代社会では、小さな争いが過激な暴力や殺人にまで至ったというようなニュースが、毎日のように伝えられています。
「同僚を殺そうとしたとして逮捕」や、「近所同士の確執がエスカレートして芝刈り機で攻撃」などのような、衝撃的な見出しをご覧になったことがあるかもしれません。
どうして人はこんなにも愚かで理不尽になってしまうのでしょうか?我々は自分自身に気取って思うかもしれません。もちろん、これらは極端な例です。 しかし、私たちは日常の生活の中で、たまに理性を失うときがあり、きついことを言ったりして、配偶者や他の人を傷つけたりします。
他人を非難したり、怒りを爆発させたりすることは簡単です。しかし、古代の中国人は生きていくうえで避けられない紛争をうまく解決する方法を実践してきました。それが寛容さです。
他人にあなたの心の平穏を乱されるということは、他人に力を与えすぎることになります。そうではなく、他人の間違いを許し、欠点を理解してあげてください。他人に情けをかけることで、他人の心を動かすことさえできるかもしれません。その一方で、不公平に直面しても穏やかな心を保つことができれば、あなたは自分自身を失わずに済むだけでなく、心の平穏を保つこともできます。
これからご紹介するのは、中国の伝統文化として語り継がれてきた、数々の寛容の精神のすばらしい物語です。
近所の人があなたの畑を荒らしたらどうするか…古代中国の解決方法
宋就(Song Jiu)は、古代中国の春秋戦国時代(722 B.C. to 481 B.C.)に梁という国の県令(古代中国に於いての県知事にあたる役職)でした。梁の隣には楚という国があり、両方の国の国境には杭がありました。この杭を境に両方の国の農民たちはそれぞれ瓜を栽培していました。
梁の農民たちはよく働き、頻繁に水やりをしたので、大きくてみずみずしい瓜ができました。しかし、楚の農民たちは怠け者でした。彼らは一度もといっていいほど水やりをしたことがありませんでした。ですから、彼らの瓜は小さくてしわが寄っていました。
嫉妬心から、ある夜、楚の農民たちは国境を越えて梁の農民たちの畑に入り、梁の農民たちが育てた瓜のつるを踏みつけ、そのほとんどを駄目にしてしまいました。次の日、梁の農民たちが被害に気づき、激怒して、役人の宋に復讐をしてほしいと願い出ました。
宋は首を振って言いました。「そのようなことをすべきではありません。敵を作ることはさらなる災難につながります。復讐を考えるのは心の狭い人のやることです」
その代わりに、宋は計画を立てました。梁の農民たちの集団を毎晩楚にこっそりと送り込み、楚の瓜に水やりをさせることにしたのです。あくまでも楚の農民たちには秘密の計画でした。
翌朝、楚の農民たちが農作物を見に行くと、もう水やりがなされていることに気づきました。梁の農民たちからが秘密裏に手助けしたおかげで、楚の瓜のつるは日に日に成長しました。楚の農民たちはおかしいと思い、調べ始めました。梁の農民たちが彼らを助けていたことを知った楚の農民たちは、とても感激して県令に報告し、県令がさらに楚の王に報告しました。
楚の王はすぐに贈り物を送って梁の農民たちに謝りました。そして、両国の友好関係を固く約束しました。こうして、梁と楚は、長きにわたって続くすばらしい同盟を形成したのです。
宋就がその知恵と心の広さで、受けた損害を優しさで返した物語は、何世紀にもわたって語り継がれてきました。
郷里の土地をめぐる争いを解決した清の役人、張英
安徽省桐城(とうじょう)市には長さ約100m、幅2mの有名な小道があります。「六尺巷」と呼ばれるのですが、この小道が誕生した背景には美しい物語がありました。
清朝の時代を生きた有名な役人の張英(1637—1708年)は、桐城県で生まれました。彼の実家の横には空き地があり、隣人が所有権を主張するために壁を造りました。張の家族は隣人と壁をめぐって争いましたが、決着がつきそうにありませんでした。
当時、張は清の役人で、都に住んでいました。家族は彼に手紙を送り、土地をめぐる紛争を解決してほしいと訴えました。張は手紙を読むと、返事として短い詩を書きました。
千里修書只為牆 ,讓他三尺又何妨?萬里長城今猶在,不見當年秦始皇。
千里 書を修すは 只だ牆の爲,
他(かれ)に 三尺を讓るも 何ぞ妨(さまた)げ有らんや。
長城 萬里 今 猶ほ在るも,
見えず 當年の 秦始皇。
万里の長城は、清朝の約2000年前の秦の時代に始皇帝の命により建設されました。この壮大な歴史にふれることによって、チャングは、家族に、大切かつ短い人生というのは小さなことで争うにはあまりにももったいなすぎるということを伝えたかったのです。
この詩を見た家族は、自分たちを恥ずかしく思いました。そして、すぐに張の指示にしたがって、隣人に三尺(約90㎝)分の土地を譲りました。隣人は張の謙虚な態度に非常に感銘を受け、自ら三尺譲りました。こうして、六尺(180㎝)の小道ができたのです。この寛容さの大切さを教えてくれる物語は何世代にもわたって中国で語り継がれています。
脅しやうわさに対処する方法
藺相如(りん しょうじょ)は戦国時代に趙の恵文王の家臣(かしん)でしたが、結果的に宰相(総理大臣)にまで出世しました。彼のスピード出世を妬んだのが、藺からの命令を受けざるを得ない立場に置かれることとなった廉頗(れん ぱ)将軍です。
廉頗は怒って、公然と「私は将軍であり、この地位は多くの城を征服することによって得たものだ。それなのに、藺相如はしゃべるだけで私よりも高い地位に就いた。彼に会ったら、恥ずかしい思いをさせてやろう」と言いました。
この噂を聞いた藺は心を乱さず、争いを避けることにしました。彼は、廉の側近たちが来るのが見えても関わらないことにしたのです。
藺の家臣たちは、藺が将軍のことを恐れているのだと誤解し、「あなたさまの地位は廉頗将軍よりも高いのです。それなのに、あなたさまは彼のことを恐れて彼を避けようとされている。普通の人でさえもそのようなことをするのは恥ずかしいことです。どうか私たちにお暇を出してください」と言いました。
藺は家臣たちに強く自らの下に残るように促し、廉からの脅しに対して自分がとった対応の理由を述べました。
藺はまず家臣たちに尋ねました。「誰の方がより力があると思う?廉頗将軍だろうか、それとも秦の王だろうか」
家臣たちは皆、秦の王であると答えました。というのも秦国はその当時とても大きな力を持っていたのからです。
藺は続けて言いました。「私は恐れ多くも秦の王と言い争って王に説教することにしたのだ。どうしてそんな私が廉将軍のことを恐れようか」
藺はさらに続けます。「廉将軍と私がいるおかげで秦国はあえて我々の国を攻めようとしないのだ。2頭の虎は喧嘩していては共存できない。私が彼の行動を許すのは、私が自らのプライドよりも国の繁栄を大切に思うからだ」
廉頗将軍は藺の言葉を伝えられると、恥ずかしくなって、すぐに藺のもとに謝りに行きました。「私はあなたの親切さに恐れ入りました。あなたが私に対してこれほどまで寛容でいてくださるとは予想していませんでした」と彼は藺に言いました。
2人の間のすべてのわだかまりは解消し、彼らは親友になりました。
自分の誤りを正すことができるということは、古代からよいことだとみなされてきました。人々は廉頗将軍を、真摯に反省して自分の考え方を修正する力を持っていたとして褒めたたえました。藺相如も、紛争の最中に寛容な態度をとり、自分のプライドよりも国益を最優先したとして、人々に褒めたたえられました。
海のような寛容さ
寛容さは、中国の伝統文化の中で最も重要な徳の一つです。無私無欲、知恵、そして広い心の反映としての寛容さは、自己を律することからくるもので、優しさ、思いやり、仁愛、善良の自然な現れです。寛容さは、人々の間の関係を改善することによって、彼らをより親密な間柄にします。
古代中国では、賢者と徳のある人が多くの人々から敬意を払われました。困難に直面すると他人のことを第一に考える彼らの姿勢は多くの人にとっての尊敬される見本となりました。
古代中国の尊敬すべき賢人である老子は、徳のある人はすべてを包容して調和した行動ができると説きました。老子はこれを「道」と表現しました。「大河や海が広くて深いのは、どんなに小さな川からも水が流れ込めるようにしたためです」と、彼は言いました。
これはつまり、すべてを受け入れることができるようになるためには、人は思いやりのある心を持っていなければならないということを意味します。心が広ければ広いほど、より大きな世界を受け入れることができるということです。
高徳の人々は完全に無私無欲で、レベルの高い道徳規範を持っています。彼らは優しく、寛容で、他人を助け世話をしたいと願い、自分の利益に影響されることは決してありません。
ですから、次に紛争が起こったときは、川や小川からすべての水を受け入れる無限の能力を持った海を想像してみてください。私たちもきっと海のようになれるはずです。