【三国志】もしも曹操が火のついた矢を放ったら、「草船で矢を拝借」はどうなっていた?

曹操は中国歴史上の軍事の天才と言える人物です。彼は建安2年(195年)より、張繡(ちょうしゅう)、呂布、袁術、袁紹、劉表を次々と降伏させ、長江より北の地域をほとんど統一させました。その勢いに乗って、建安13年12月、曹操はさらに83万人の軍を率い、江東及び劉備らに進撃しました。

しかし、南下した際、諸葛孔明に草船で10万本の矢を拝借されてしまい、赤壁の戦いで、軍船が火の海にさせられ敗者になりました。ですが、もしも、諸葛孔明の船に曹操が火のついた矢を放ったとしたら、結果はどうなっていたのでしょうか?

諸葛孔明 『歴代君臣図鑑』(清代拓本)より。ハーバード大学イェンチン図書館所蔵(パプリックドメイン)

その前に、まず知っておかなければならない重要なことがあります。それが、諸葛孔明はなぜ草船で矢を拝借したかということです。呉の大都督・周瑜(しゅうゆ)は、頭脳が優れ才能溢れる諸葛孔明に脅威を感じて彼を殺そうと決心し、材料のない状況下で10万本の矢を短時間で作るよう諸葛孔明に命じました。これに応えられなければ諸葛孔明に責任を取ってもらおうと企んでいたのです。そこで、諸葛孔明はやむを得ず草船で矢を拝借する方法を考えたわけです。

当時、曹操軍は強くて、武器も揃っており、彼に矢を求めることが最も効率的だと考えた諸葛孔明は、霧の濃い夜に陣太鼓を打ち鳴らし、敵を攻め込むふりをして、藁人形をいっぱい詰めた数十隻の小船で曹操の陣営に向かっていきました。状況が分からなかった曹操は慌てて応戦し、一斉に矢を射かけました。矢は次々と藁人形に突き刺さり、全ての矢が諸葛孔明のものになりました。このようにして、諸葛孔明は10万本の矢を手に入れて、優れた功績を収めました。

ですが、もしもそのとき、曹操が火のついた矢を放ったとしたら、小船に詰めた藁人形が全部燃えあがり、諸葛孔明の命もなくなり、赤壁の戦いもなかったでしょう。少なくとも曹操の敗戦はそこまで凄まじくなかったのかもしれません。終いに中国の歴史も書き換えられたかもしれません。では、曹操はなぜそのときに、火のついた矢を使わなかったのでしょうか?

草船で矢を拝借 (古瑞珍/大紀元)

一説では、当時、ロケットはまだ発明されていないか、または戦場で矢に火をつけて使う発想はなかったからです。しかし、この説は次のことで覆されました。「火計で連ねた陣営を落とした」という有名な典故があります。劉備は関羽のために復讐することとして、東呉を侵攻しましたが、陸遜が仕掛けた火計に40以上の陣営が陥落されました。劉備はその後、白帝城で病死しました。つまり、矢に火をつけて応用することは当時既に存在していました。戦争経験が豊富な曹操がそれを使わない理由はないのです。

諸説を踏まえて分析すると、曹操がなぜ矢に火をつけなかったかの理由は次の三つあるとされます。

一、当時の曹操自身の状態。戦いに勝ち続けた曹操は意気揚々に江東に向かいました。江東地域は人口が少なく、経済発展は進んでおらず、「新興地域」と見なされませんでした。それに曹操の目に映った孫權は平凡そのもので、気にしていませんでした。

二、当時の戦争背景。諸葛孔明が曹操の陣営を突撃した際、濃い霧に満ちていたことから、湿気が強く、点火に時間がかなりかかるからです。また、仮に点火が成功したにしても、もはや孫権・劉備の連合軍に落とされたのかもしれません。曹操の立場からして、あの緊急事態では、矢に火をつけて戦うことは考えられなかったのです。

三、北の兵士は南の気候風土に馴染めず、具合の悪い兵士が続出し、混乱した場面に直面したときでした。水上での戦いが不得意な北の兵士がこれ以上乱されないように、曹操は鉄の鎖で船を連ねました。混乱の中、我が船団が火に包まれてはならないので、曹操は敢えて矢に火をつける命令を出さなかったのです。

何はともあれ、天下の形勢がそのようになっており、あの時代の中国の歴史における必然的なドラマだったのでしょう。

 
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