1月30日から予定されていた米国との貿易協議のため、中国の劉鶴(りゅう・かく)副首相率いる代表団が1月28日、ワシントン入りしました。協議の初日、中国人の陳情者十数人が二度も劉副首相の車列を阻み、抗議を行いました。
1月30日朝、中国側の代表団が宿泊先のウィラード・インターコンチネンタルホテルから出て協議会場に向かおうとしたところ、外で待機していた中国人陳情者十数人に阻まれました。現場にいた上海からの陳情者が当時の様子を語りました。
上海からの陳情者 葛麗芳さん
「車列が正面を通るのを見て、我々全員が飛び出した。角を曲がるとすぐ劉鶴が出てきたので、陳情者たちが走っていった。FBIは正面の両サイドを遮った。彼らは力が強いので、我々は止められた。多くの人が地面に倒されて、混乱した状況だった」
大連からの陳情者、王さんは劉副首相に接近でき、足を掴みました。
大連からの陳情者 王春豔さん
「(副首相が)我々を無視していたので、私は走って行って、地面に膝をつけて彼の足に抱きついた。彼を絶対行かせないと、必死の思いで彼の車列を阻んだ。結果、米国と中国の警察が長時間私を地面に押さえつけた」
当日午後、米中貿易協議が行われた会場の外でも、中国人の陳情者十数人が抗議を行いました。
上海からの陳情者 葛麗芳さん
「午後になって、貿易センターに行った。昼から別の陳情者らが来て、一緒に抗議を行った。朝は警備が厳しくなかったのに、午後には強化されていた。彼らはビルから飛び出てきて、白潔敏さんと王春豔さんを地面に押さえ付けた。車列を見たので走って行ったが、警察に阻まれた」
大連からの陳情者 王春豔さん
「午後1〜2時頃、副首相の車列が出てきたので、私は最初に飛び出て行ったが、警察官3人に押さえつけられた」
王さんはその場で解放されましたが、白潔敏(はく・けつびん)さんは警察署に連行され、拘束されました。
異国の地で抗議を行ったことに対し、王さんは中国の全ての陳情者の代わりに鬱憤を晴らしたかったと述べます。
大連からの陳情者 王春豔さん
「庶民の家を強制立ち退きし、自国民の利益も保障しないのに、米国と何の貿易協議をやるのか。共産党は腐敗しきっているし、庶民は苦しすぎる。このことを伝えると同時に、中国の全ての陳情者の鬱憤を晴らすためでもある」
大連市当局による強制立ち退きの被害に遭った王さんは、10年以上も陳情を続けたため、何度も拘束されました。弟は当局から暴力を振るわれて精神が崩壊し、母親は陳情の途中、病院で亡くなりました。
上海からの陳情者、葛(かつ)さんも、2001年に自宅の強制立ち退きに遭い、両親もこのことで二人とも他界しました。やっとの事で米国に逃れたものの、このままだと生きる道がないので、一縷(いちる)の望みを託して、陳情を決心したとのことです。