【創立110周年を迎えた国立療養所】菊池恵楓園(きくちけいふうえん)

熊本県にあるハンセン病療養所・菊池恵楓園(旧菊池郡)が今年で創立110年を迎えた。ハンセン病とは「らい菌」による感染症。1873年(明治6年)にらい菌を発見したノルウェーの医師ハンセンの名前をとってハンセン病と呼ばれている。らい菌の感染力は弱く、日本における近年の患者数は年間数名だけ。ハンセン病療養所で勤務する職員の感染例もない。また抗菌剤もあり、日本ではほぼ根絶された病気と言われている。

今年で創立110周年を迎えた菊池恵楓園(熊本県・合志市)の入口(撮影:宮本)

しかし、なぜハンセン病患者は長い間、差別や偏見に苦しんできたのだろうか?
最大の原因は、国家によるハンセン病患者に対する強制隔離政策であろう。

恵楓園の案内板 広大な敷地だが、患者の居住区はかって高い塀によって囲われ隔離されていた。現在は自由に園内に入ることができる(撮影:宮本) 

明治維新当初、ハンセン病患者は自宅で隠れて暮らすか、家を出て神社仏閣で物乞いなどをして生活していた。しかし1897年(明治30年)ハンセン病が感染症であると確認され、1899年に新条約により欧米人が日本国内を自由に旅行できるようになると、ハンセン病患者の存在は「文明国」の恥とされ隔離政策が始まった。

晴れた日の園内 2019年4月現在、194名(男性 82名、女性 112名)の方が生活されている(撮影:宮本)

 

園内は四季を通じていろんな花を楽しめる(4月撮影:宮本)

ハンセン病では、末梢神経の感覚障害から外傷や火傷を起こしやすくなり、それによる骨髄炎などにより手足の指を失ったり、鼻が変形するなど、外見に対する偏見があった。それに加えて、町中を放浪する患者が強制的に人里離れた土地に移されていく光景は、見た人々にハンセン病は恐ろしい病気という意識を植え付けていった。また医師の光田健輔が主導した「無らい県運動」(1930年代~1960年代)も差別を助長した。それは各都道府県が競い合ってハンセン病患者を摘発し療養所へ隔離することで患者ゼロを目指すというもので、ますます人々に偏見を植え付けた。戦後の「無らい県運動」のなか、山梨県ではハンセン病患者の一家が心中するような悲劇的な事件も発生している。

全国で唯一のハンセン病患者だけを収容していた旧菊池医療刑務支所(菊池恵楓園に隣接) 支所を囲っている長さ488m、高さ約5mの外塀は威圧感がある。支所は1953年に開設。97年の閉鎖までに117名を収容した。「国による人権侵害の証拠」とされた。(撮影:宮本)

家族からハンセン病患者が出ると周りから強い差別を受ける。熊本でも「龍田寮児童通学拒否事件」「本妙寺事件」「菊池事件」という差別事件が発生した。子供のころに家族から引き離された患者の話を聞くと胸が痛む。ハンセン病患者が出た家と分かると、結婚をはじめ、さまざまな差別や偏見にさらされる。病気が治っても実家に帰れない元患者や、療養所で亡くなっても故郷の墓にさえ入れない人も多数でている。また療養所の中でも不妊手術だけでなく、結婚後に断種手術や堕胎手術を強制されるなどの差別を受けた。

旧菊池刑務支所の建物は現在、取り壊され、合志市の小中一貫校「合志楓の森(こうしかえでのもり)」として2021年4月に開校予定(2019年7月撮影:宮本)

 

社会交流会館(旧事務本館)旧事務本館は1951年に落成。この建物の中で在園者に対し断種手術や堕胎手術を行っていた。その後、老朽化のため1993年に新しい事務本館が新築。2006年に改装され社会交流会館となり、現在はハンセン病の啓発活動をしている(撮影:宮本)

戦後、抗菌剤が次々と改良され、ハンセン病は完治する病気となったが偏見は簡単にはなくならない。2003年、熊本の黒川温泉で起こったハンセン病患者に対する宿泊拒否事件はまだ記憶に新しい。報道されると、「世間を騒がせず、おとなしく暮らせ」などとハンセン病元患者を非難する抗議が殺到したという。

同社会交流会館展示物。パネルや映像、当時の状況の再現などで分かりやすくハンセン病の歴史を説明、正しい知識の普及啓発を行っている。入場無料。自由に見学できる 写真中央にあるのは入園者を隔離していた塀を復元したもの(撮影:宮本)

ハンセン病元患者や支援者による地道な啓蒙活動により少しずつ真相を知る人が増えてきた。「らい予防法(1996年に廃止)」が憲法に反するとして、1998年提訴された国家賠償法において、20015月に熊本地方裁判所で原告勝訴の判決が下され、国は控訴を断念した。しかし、先にあげた宿泊拒否事件は、この2年後に発生している。

同歴史資料館の展示物 説明パネルによれば「家族に差別が及ばぬように療養所の中では偽名を名乗ることが勧められた。患者の制服としての縦縞の着物が与えられた」とある。入園者の心情を思うと・・・。(撮影:宮本)

 

監禁室跡 1917年に設置された当初はレンガ壁で囲まれていた。療養所から逃走した人や、園内で職員などの指示に従わない人も入れられた。1916年に改正された「癩予防法・同施行管理」により、ハンセン病療養所長には裁判を行わずに患者を処罰できるという権限を与えられていた(撮影:宮本)

またハンセン病元患者家族への差別被害による訴訟も本年628日、熊本地裁において国に賠償を命じる判決が出、79日、安部首相が控訴見送りを表明。24日には首相が原告団と面会し、「心から深くおわび申し上げます」と謝罪した。1909年(明治42年)4月に現在の菊池恵楓園が開設されて以来、大正・昭和・平成・令和と五つの時代をまたがって続いてきた差別・偏見は、国家の間違った政策がいかに国民を深く傷つけるかを物語った歴史でもある。

旧納骨堂 死去した後も、故郷の墓にも入れない入園者の遺骨が眠っている(撮影:宮本)

撮影・文 宮本和彦20194月~7月撮影)

参考資料

『国立療養所菊池恵楓園社会交流会館収蔵資料』
『ガイドブック菊池恵楓園』花伝社刊
『楽々理解ハンセン病』花伝社
『ハンセン病と人権一問一答』解放出版社

 
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