古代ローマでは、は貴族の間で中国のシルクを使ったファッションが人気でした。ある日、ローマ劇場でイベントが行われていました。そこにシルクローブを身に纏ったカエサル皇帝が現れました。鮮やかな色彩と光り輝くローブに人々は目を奪われてしまいました。この日のイベントは言うまでもなく、皇帝のシルクローブが注目の的となりました。
当時のローマ人は粗末なウールの服を着用していました。貴族にしてもせいぜい麻製の服を身に着ける程度でした。そのため 美しいシルクを手にするともう手放せなくなりました。シルクは古代ローマの上流社会で貴族が愛用する贅沢品となりました。約3メートルの高級シルクの値段は450gの金が必要でした。考古学者は古代ローマの彫刻や陶器・絵画にシルクのようなふわりとして透き通るローブを身に纏った人々が描かれているのを発見しました。
中国より大量のシルクが流入したため、ローマ帝国の貿易赤字が急激に上昇しました。当時中国より輸入されたシルクの貿易額は金にして2834キロに達しました。ローマ帝国はシルク生地の着用を禁止する法令を制定せざるを得ませんでした。3〜4世紀になると、シルクの織物はローマ人が愛する唯一のファッションアイテムとなりました。多くの国がシルクの生産方法を知りたがっていましたが、中国の歴代王朝は外国に伝えるのを禁止していました。
蚕の伝播
蚕が外国に伝わった最初の記録は唐の時代、玄裝法師の著書「大唐西域記」に記されています。《大唐西域記・瞿薩旦那国(クスタナ)》巻第八、《麻射僧伽藍及び蚕種の伝承者》の中にある物語を紹介しましょう。
西方のクスタナ国(現在の新疆辺り)の国王が蚕の飼育技術を学びたいと東国に求めるも拒否されました。そこでクスタナ国王は東国の王女を妻に迎えたいと申し出て、許可されました。クスタナ国王の使者が王女に「蚕の卵と桑の種を持ってくるように」と伝え、王女は蚕の卵と桑の種を帽子に隠し、クスタナ国に嫁ぎましたナ国に嫁ぎました。蚕の養殖技術はこのようにして外国に伝わりました。シルクを生産する核心技術は、このようにして世界に伝わりました。
13世紀、シルクの紡績技術はイタリアで展開され発展し、徐々にヨーロッパのシルク工業の中心になりました。しかし、中国のシルクがローマ帝国に与えた強い影響は未だに人々の記憶に残っています。