【中国人権問題】法輪功学習者ジェイソン・シオン氏が語る、苛烈な拷問にも屈しなかった信念と勇気の物語

暗い刑務所の独房の中。

ジェイソン・シオンさんは1年以上もの間、ベッドの上に大の字に縛り付けられていました。

手足は、木製ベッドの4方の足に向かって、常にロープで引っ張られた状態でした。

かろうじて死ななかったのは、鼻から胃に挿入したチューブを通して、食事を与えられていたからです。

数日に一度、「豆乳」「牛乳」「粥」等の液体の栄養物が、チューブから流し込まれます。

「とても痛かった」シオン氏は、Epoch Timesに語ります。

「それでも、歯を食いしばって耐えたのです」

シオン氏は、法輪功を教えを実践したというだけの理由で、中国政府に長期間拘束されました。しかし、彼は屈服せず、不合理きわまりない迫害に抗議しました。

シオン氏はハンガー・ストライキを行いました。

しかし、ハンガー・ストライキは、以前にも増して無慈悲な拷問を招いただけでした。それがシオン氏を死の淵に追いやったのです。

シオン氏が自らの体験について重い口を開いたのは、10年以上も経ってからです。

彼は現在、ニューヨーク市に住んでいます。

そして今、信仰のために受けた拷問と虐待の体験を、悪夢のように回想します。

「大変な苦難のときでした」とシオン氏は語ります。

「私が克服した数多くの苦難は、誰にも想像できないでしょう」

Jason Xiong in Manhattan, New York City, on May 16, 2019. (Samira Bouaou/The Epoch Times)

シオン氏は上海出身です。法輪功と呼ばれる精神修養法を実践しています。

法輪功は、中国古来の道徳をベースとしていて、5式の功法の動作と、「真・善・忍」の理念に基づいています。

1992年に法輪功の教えが一般に紹介されて以来、中国での人気は急上昇しました。

欧州のメディアによると、当時の中国政府の推計では、1992年末までに約7,000万人から1億人が法輪功の支持者となっていました。

中国共産党は、法輪功の人気に脅威を感じました。

そして、1999年に法輪功を非合法化し、学習者に対する全国的な迫害を始めたのです。

シオン氏を始めとする法輪功学習者は逮捕され、労働収容所、刑務所、洗脳センター、その他の拘禁施設に囚われ、信仰を放棄するよう強制されました。

調査作家のイーサン・グットマン氏の推定によれば、常時50万人から100万人の学習者が国内の複数箇所にある拘禁施設に拘禁されていました。

『明慧ネット』の調べでは、現在までに4,135人の法輪功学習者が、警察や国家による拘禁中に死亡したことが確認されています。『明慧ネット』とは、法輪功学習者が運営する中国共産党による迫害の情報を伝えるウェブサイトです。中国では、国家機密の入手とそれに対する検証が非常に困難なため、実際の死亡者数ははるかに多いと推測されます。

 ~はじまり

シオン氏が、祖父の影響で法輪功を習い始めたのは、1997年の25歳のときです。

シオン氏の祖父は心臓病を患っており、医者からは治療不可能だと言われました。

しかし、法輪功の修煉を始めると、祖父の健康は劇的に回復しました。シオン氏は、ずっと病気がちだった祖父が健康で元気になったことに感銘を受けました。そして、何がこのような奇跡的な回復を引き起こしたのかをたずねたのです。祖父は、法輪功の書籍である『転法輪』をそっと差し出しました。シオン氏はその本を読み始めました。

『転法輪』を読んで、シオン氏が経験した最大の変化は、人生観の変化でした。彼は、「真」「善」「忍」を日常生活に取り入れることで、善き人となり、自らの道徳と人格を向上させる方法を学びました。

シオン氏は「この本は、私の人生に方向性を与えてくれたのです」と語ります。

そして、心身の健康状態が劇的に改善していることにも気づきました。以前は、しばしば病気になり、そのたびに熱を出して、衰弱していたのです。

「法輪功の修煉を始めると、自分の体が頑強になったことを、はっきりと感じました」

「病気になることもなくなりました」

1998年末、上海政府で公務員として働いていたシオン氏は、職場で「優秀職員」として認められていました。

「心の中で、こうした良い変化は、すべて法輪功の修煉のおかげだと思っていました」と、シオン氏は語ります。

Police detain a Falun Gong protester in Tiananmen Square as a crowd watches in Beijing in this Oct. 1, 2000 photo. (AP Photo/Chien-min Chung)

弾圧  1999年7月

すべてが変わってしまったのは、1999年の7月のことです。

1999年7月22日、シオン氏が仕事をしていると、彼を含めた職場の全員が、会議室に行って中国国営のCCTVでテレビ放送を見るよう指示がありました。放送は、当局は法輪功を「異端の宗教」と認定し、その実践をやめるよう命じるものでした。

シオン氏は、その放送についてどう考えたらいいのかさえ、分かりませんでした。彼は、それまで普通の市民だったのです。

「私は良い人間になりたいと思っていました」とシオン氏はいいます。「私は義務を果たしていたし、法律を守っていました」

「それを突然、当局は、自分を無実の罪で非難したのです」とシオン氏は回想します。

「きっとつらい現実が待っているに違いない‥‥」

「その日から、私の人生は全てがひっくり返ってしまいました」

シオン氏は毎日、オフィスに来るように命じられ、2人の人物と面会しました。あるときは彼の上司、またあるときは知らない人でした。しかしすべての人が、脅し、なだめすかし、策略を組み合わせて、法輪功の実践をやめるよう彼に強制しました。

その間、シオン氏は、国内の放送や印刷物がプロパガンダによって覆い尽くされるのを目の当たりにしました。

シオン氏の上司は、もはや彼に仕事を与えることはありませんでした。彼の唯一の仕事は、国家の意志に従うことでした。

しかし、シアン氏は「屈服」することを断固拒絶しました。

彼は法輪功を実践した自分の体験談を書いて、上司や職場の各部署に配布して回りました。

シオン氏は、こう言っています。「私は、中国共産党に、平和な生活を求め、人格を向上させようとしているだけの一般市民を標的にするのをやめるよう伝えたかった」

当時の多くの法輪功学習者と同様、シオン氏は北京に行き、迫害をやめるよう当局に申請しました。

1999年12月下旬には、天安門広場で法輪功の5式の功法の動作を行いました。

広場には、制服と私服の警官がいたるところにいて、警察の車両が敷地内に並んでいました。警察は、迫害をやめるよう抗議するために全国各地から集まった法輪功学習者を、待ち構えていたです。

「私は自分の体が鉛のように重く感じました」とシオン氏は言います。「一歩一歩の歩みに抵抗を感じました」

しかし、シオン氏は広場に入り、腕を伸ばしたり、さまざまな姿勢でリラックスしたりしながら、立って行う動作を始めました。すると、すぐさま警察官に連行され、バンの中に押し込められました。

若い警察官がシオン氏の顔をナイフの柄で何度も殴りました。別の警察官がやって来て、シオン氏の顔を平手打ちし、腹部を蹴りました。30分間殴られた後、顔が誰だか分からないほど腫れてしまいました。

そのシオン氏は上海に送還され、警察に1か月間拘禁されました。

強制労働収容所

シオン氏はいったんは釈放されました。

しかし、2000年2月にある夜のこと、シオン氏は自宅で両親と食事をしていたところ、警察の訪問を受けました。警察官がドアをノックする音が聞こえます。警察官は、シオン氏に警察署に来て話をするように言いました。何も知らないシオン氏は同意しましたが、母親は何か不穏な雰囲気を感じました。

不吉な予感を感じたときは、すでに手遅れでした。シオン氏は、警察の車の中から、母親が飛び出して来て、道の脇に呆然と立っているのが見えました。そのときの映像は、今もトラウマとなって、彼を悩ませています。

警察署で、シオン氏は、職場で個人的な主張を配布し、天安門広場で煉功動作を行った罪で、1年半の刑を言い渡されました。

シオン氏は、上海の普陀区の拘置所に拘禁されました。当初、シオン氏は心身ともに衰弱していたので、食べることができませんでした。この拒食は、やがて意図的な抵抗に変わりました。

「監獄に閉じ込められた私に、他にどのような方法で抗議することができるでしょうか?」シオン氏は言います。

シオン氏はハンガー・ストライキを始めると、刑務官は3日ごとに、他の受刑者にシオン氏を押さえつけるよう命令し、医師が長いゴムチューブを鼻から胃に挿入しました。そして、刑務官はチューブから豆乳を注ぎました。

この拷問は30日間続き、シオン氏が死ぬかもしれないと思った施設は、治療のために彼をを地元の病院に移送しました。

シオン氏は常に監視を受けていましたが、母親が来て、食事を手伝っていました。数週間経つと、シオン氏は徐々に快方に向かいました。彼は、回復後に再び拘禁されることをおそれて、看守の注意がそれた隙に、やっとのことで逃げ出しました。

シオン氏は北京に逃れ、法輪功学習者の友人の家にかくまわれました。しかし、2か月後、友人とその妻、シオン氏は北京警察に逮捕されてしまいました。

シオン氏は上海に連れ戻され、労働収容所で1年の刑期の追加を言い渡されました。刑期は合計2年半になってしまいました。

2000年6月、シオン氏は江蘇省燕城市の上海第1強制労働収容所に移送されました。ここでは、シオン氏、彼を監視し虐待する任務を与えられた3人の犯罪者と同室させられました。

2人は、毎日シオン氏に小さなイスに座らせて、足をそろえ、背筋を伸ばして、両手を膝の上に置くように命じました。そして、目をまっすぐ前に向けるよう言いました。もしシオン氏がその姿勢を崩すと、2人の囚人はシオン氏を殴ったり、どやしつけたりしました。

シオン氏は、食事とトイレ休憩を除いて、毎日午前6時から午後10時まで座り続けさせられました。やがて、お尻の皮膚がすり切れて、激しい痛みを感じるようになりました。

シオン氏は、再びハンガー・ストライキに入りました。

看守らは同室の受刑者2人に命じて、シオン氏の体が星型になるよう、手足を木のベッドの枠に縛り付けさせました。胴体もロープでベッドの枠に固定されていました。そして、長さ1メートルのプラスチック製チューブを鼻から挿入され、強制的に給餌されたのです。

3人の受刑者が、24時間シオン氏を見張りました。退屈していた彼らは、竹の棒でシアン氏の胴や足を殴りました。そして、わきの下や胸、腹部を竹の棒でひっかいて、それを見て笑い転げたのです。

シオン氏は4か月の間、辛抱しました。

「もう前の生活に戻れないことは分かっていました」とシオン氏は言います。「一番辛いところでくじけたら、あとは倒れるだけです。すべてが終わります」

拷問が長期間続いたため、シオン氏の胃や肩の関節、足の神経は、大きな損傷を受けました。

シオン氏が死んでしまうかもしれないと思案した当局は、再び彼を病院に搬送しました。ひどい胃炎と胃内出血が見つかりました。シオン氏は何も持ち上げることができず、右足はほとんど動かない状態でした。

労働収容所の職員は、拷問を行って死亡させた場合、責任を問われる恐れがあります。そのため、2000年10月、労働収容所は、シオン氏を釈放しました。シオン氏は自宅に戻ると、法輪功の修煉を再開しました。そのおかげで、数か月で彼の健康は完全に回復しました。

自宅で療養していたシオン氏は、法輪功の内容や、今なお続く迫害に関する情報を乗せたポスターを印刷しました。中国政府のプロパガンダを一掃するためです。そして、これらの印刷物を上海周辺の他の法輪功学習者に配布しました。その後、健康が回復すると、シオン氏自身が資料を配布するようになりました。

その結果、シオン氏は私服警官数人に常時尾行され、2001年に、他の2人の法輪功学習者とともに再び逮捕されました。今度は、上海の提籃橋刑務所での4年半の服役を言い渡されました。

610弁公室。それは、法輪功学習者たちを迫害する任務を負った、ゲシュタポのような超法規的組織です。610弁公室は、現地の刑務官たちに、法輪功学習者たちを「転向」させるよう指示しました。

3人の受刑者がシオン氏を監視し、「転向」をさせるように命じられていました。シオン氏は殴られ、長時間小さなイスに座らされ、法輪功を中傷する記事を読まされました。

シオン氏は再びハンガー・ストライキを2年間続けました。

2004年から2005年初めまでの一年間、独房で木製のベッドに縛り付けられました。手首や足首を結ぶロープが血と汗で汚れ、発疹が生じ、膿が出て、とてもかゆくなりました。

刑務所当局は、シオン氏を最も暴力的な犯罪者が収容されていた刑務所に移送することで、シオン氏を「転向」させる取り組みをエスカレートさせました。

6人(のちに10人)の受刑者グループが、シオン氏を交代で監視する任務を与えられました。受刑者たちは、シオン氏に修煉を放棄させることができれば、刑が減刑されられることが約束されていたのです。

数人の受刑者がシオン氏を壁や地面に繰り返し打ち付けました。彼らは木の棒で、シオン氏の素足を打ち、足が折れて倒れるまで打ちすえました。彼らはシオン氏に竹箒の汚れた剛毛を押しつけて、出血させました。そのときの傷は、今でも残っています。

2005年3月、受刑者の一人が硬いプラスチック製のかかとが付いたスリッパで、シオン氏の頭を殴りました。傷から血が流れだし、頭部が腫れました。まるでヘルメットをかぶっているようでした。シアン氏が病院に運ばれたとき、看守らは、シオン氏が転倒して負傷したのだと主張し、拷問を隠蔽しました。

シオン氏の頭の腫れとかさぶたが治るのに、数か月かかりました。シオン氏の頭には、今だに髪が生えてこない部分があります。

Xiong’s skull is exposed from beatings by inmates in the Tilanqiao Prison in Shanghai in 2005. (Minghui.org)

同室の受刑者たちの攻撃は続きました。彼らは四六時中シオン氏を殴り、殴り疲れると、シオン氏の口、鼻、目に唐辛子やコロン、虫よけスプレーを噴霧しました。彼らはシオン氏に、いい加減死んでくれればいいのに、と言いました。

彼らの企みは、もう少しで成功するところでした。シオン氏は、自分が苦難に耐え切れず、くじけそうになりました。しかし、心にはまだ葛藤がありました。

「自分が正しいとわかっていれば、恐れることは何もないんだ」とシオン氏は言いました。

「死にたくはなかった。でも、私を無理やりひざまずかせ、奴隷にしようとするなら、私は断固拒否する!」

ある日、シオン氏は他の受刑者たちが収容所からの移送方法について話しているのを耳にしました。シオン氏は、ペンを飲み込むことを思いつきました。そして、最後の抵抗として、シオン氏は他の受刑者たちが見ていないとき、2本のペンを飲み込んだのでした。

ペンの1本は体内を通過しましたが、もう1本は腸と肝臓の間にとどまったため、シオン氏は再び病院に運ばれました。そこで医師たちは、シオン氏の体が拷問によってひどく損傷していることに気づきました。彼の肺は感染症を起こしていて、高熱が出ており、危険なほど低血圧でした。刑務所当局は、シオン氏が死ぬことを恐れて、2005年4月、医師がペンの摘出手術を行った病院に来た彼の母親に、シオン氏の身柄を引き渡しました。

シオン氏は退院したとき、体がひどく衰弱しており、体中ケガだらけでしたが、6か月でほぼ回復しました。しかし、拷問があまりにも長引いたため、後遺症が残ってしまいました。いまだに、背中、腹部、膝に痛みを感じ、右足はしびれたままです。

その後、シオン氏は製造業の仕事を見つけ、普通の生活を送ろうとしました。

しかし、その願いはまったくかないませんでした。

シオン氏は警察の監視下に置かれ、行く先々まで追跡されました。それでもシオン氏は警察の尾行を逃れて、こっそりとビラを配布したり、他の法輪功学習者と会ったりしました。そうした状況が8年間続きました。

しかし、警察がドアをノックしてくる瞬間を常に恐れていたシオン氏の家族は、その生活に耐えきれませんでした。

2013年、シオン氏はアメリカに移住することを決めました。ただただシオン氏の無事を祈っていた家族は、彼の決断を喜びました。

Jason Xiong in Manhattan, New York City, on May 16, 2019. (Samira Bouaou/The Epoch Times)

自由の国

恐怖と残忍さに満ちた獄中での14年で、シオン氏の心はこわばっていました。ニューヨークに到着すると、すぐさま安堵の気持ちをおぼえました。

「私の心から重荷が取り除かれたようでした」とシオン氏は言いました。

「これこそが人生です」

シオン氏は、中国で長年にもわたる苦難の日々に、一度も泣いたことがないと言います。しかし、世界中から集まった法輪功学習者たちがパレードに参加し、中国政府に弾圧を止めるよう求める横断幕を掲げるのを見て、彼はついに涙を流しました。

「中国での14年間と、これらの光景が感情の火花を起こしたのです」とシアン氏は言います。

シオン氏は、ニューヨーク市の主な観光地を訪れ、自らの体験や中国政府のプロパガンダの実態、そして現在も続く迫害について伝えています。

「これは当たり前のことだ」とシオン氏は言います。なぜなら、彼の仲間たちの多くが、今なお母国の獄中で苦しんでいるからです。

政府による弾圧が続く限り、シオン氏は家族に会うために中国に戻ることはできないでしょう。

「いつか家族と再会できることを願っています」と彼は言いました。「私たちはその日を信じています」

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