唐の時代、許孟容という大臣が皇帝の聖旨に逆らい進言した逸話があります。
貞元18年(802年)、唐の徳宗は齊總を衢州刺史に封ずる詔書を作りました。齊總は長い間、官位を求め、民衆の財物を搾取して朝廷に上納していたため、皇帝が広大な地域の管理を彼に任せるという情報が広がると、官民の間で議論を呼びました。そして、詔書は当時門下省(中央官庁)の審議大臣・許孟容に却下されました。許孟容は皇帝にその却下の理由を文書で説明しました。
「かつて戦闘中に、陛下は官吏に異例の抜擢をしたのですが、今の衢州は危うい情勢でもなければ、齊總に特別な功績もなく。このような破格の抜擢に群臣は驚き、不可解と感じています。どうしても齊總を任命したいのなら、皆さんの懸念を解消するために、彼の誰よりも優れている点を開示すべきです」「詔書発表を遅らせるように切にお願い申し上げます。同時に調査官を派遣し齊總を観察すれば、きっと群臣が陛下の公明を称えます」
許孟容の後に、他の諫臣も進言しました。唐徳宗はその後詔書を撤回しました。のち、唐徳宗は許孟容を呼び、こう言いました。「群臣が全員あなたのような人であれば、私に何の憂いもないでしょう」
唐憲宗元和4年(809年)、許孟容は京兆尹(官職名)に任命され、国都長安の行政長官になりました。あるとき、管轄地域である事件が起きました。長安の富豪から借金をした親衛隊長官の李昱は、3年経っても返済していません。のち、親衛隊での功績で皇帝の礼遇と恩寵を受けることになりました。彼の横暴な振る舞いも日増しに強くなって、政府や役所が抑えられなくなりました。
しかし、そのような権勢を恐れない一本気な許孟容は李昱が借金を返済をしていない事実を知り、直ちに彼を逮捕し投獄しました。そして期限付きで返済を命じ、期日まで履行しなければ死刑にするとしました。一方、唐憲宗は李昱を即釈放せよと指示しましたが、許孟容はそれには動じませんでした。そのため、朝廷側は再び使者を派遣しましたが、許孟容はこう返事しました。
「詔書に従わなければ処刑されることは重々存じ上げています。しかし、皇帝のために横暴な悪人を制することが私の仕事です。李昱が借金を返済しなければ、釈放はできません」
公正な姿勢を貫く許孟容に感服した唐憲宗は、彼の決定を認めました。この一件で、権勢を盾に横暴を働く人たちは控えめになり、許孟容の名声は広く伝わりました。