張曜は清朝の咸豊から光緒までの時代の重臣でした。張は大臣・左宗棠に随従し、侵入してきたヤクブ・ベクを倒し、捻軍と太平軍を平定しました。著しい功績をあげた張は次々と昇進し、のちに文官になり、皇帝直属の山東巡撫に任命されました。
張は少年時代は貧しかったが、弱者の味方でした。当時河南省には盗賊が蔓延っており、人々は町を守る自衛団を作りました。団長に推薦された義侠心に富む張を人々は「張兄さん」と呼んでいました。「張兄さん」の名は、河南省開封一帯に広がりました。河南省固始県が捻軍に攻められ、危うくなった時、県令は次の公告を出しました。
「この城を守ってくれた人に娘を嫁がせる」
当時の捻軍は横柄で気勢を上げていたため、立ち向かう人はいませんでした。張兄さんは人々に勧められた末、県令に会いに行きました。張はその後300人の壮士を集めて城外に待機し、待ち伏せの策で勝利しました。県令は約束通り娘を張に嫁がせました。
博識な張夫人は官界も熟知しています。夫人は読み書きできない張を支え、公文を読み聞かせ、業務の遂行を手伝いました。まるでベテランの官吏だと人々は夫人を称賛しました。張は字が読めないことで非難されることがありました。河南省で布政使を務めた時、張は御史の劉毓楠に読み書きできない者は民政等公務の処理はできないと咎められました。そのため朝廷は張を文官から武官の「総兵」に人事異動しました。張は非常に恥ずかしく思いました。
彼は勉学に励むことを決心し、人々の自分への見方を変える努力をしました。
そして張は妻に弟子入りしました。張夫人は彼を生徒として教え諭し、時には懲罰も与えました。張は学問に励み、文学・史書を熟知するようになりました。人事異動のあと張は心中穏やかではありませんでした。やがて張は横柄で傲慢な態度で、朝廷で威張るようになりました。左宗棠は回民蜂起を治めるために、張に兵隊を率いるよう朝廷に申し込んだが、張は拒否し続けました。
ある日、夫人は厳粛な態度で張に言いました。「自分が功績を上げたからといって傲慢になり、何度も命令に逆らったが、朝廷はあなたを殺せないとても思っているのですか?」
妻の言葉で悟った張はすぐ左宗棠に随従し、西北戦場に赴き回民蜂起を鎮圧しました。さらに新疆にも遠征しました。ヤクブ・ベクの乱を平定し、ロシアに支配されていたイリ地方の奪還を果たしました。のちに左宗棠の上奏により、張は武官から文官に替わり、山東省巡撫に任命されました。
張は妻に弟子入りしたことをよく人に話すので、しばらく美談となりました。張は義侠心が強く、40年も官職に就いていたが、財産を残す話には一切触れませんでした。俸給は助けの必要な人々にほぼ与え尽くしました。張は賢士や学者を礼遇したことから、各地の名士が争い彼に帰順しました。
張は清朝末期、民衆のためならどんなことでも力を尽くす数少ない清廉潔白の官僚の一人でした。張曜が亡くなった時、町の至る所で彼を偲び泣き声が聞こえていました。出棺の際、人々は彼のために長い列を作って見送りました。