オリンピック ボイコットの歴史

米政府は最近、来年2月に迫った北京冬季五輪を巡り、中国共産党政権による人権侵害を理由に政府関係者を派遣しない「外交的ボイコット」を表明しました。これを受け、豪州、英国、カナダも相次ぎ「外交的ボイコット」を表明しました。

歴史を振り返ると、6つの五輪でボイコットが行われました。時間軸に沿って見ていきましょう。

最初のボイコットは、1956年の豪州・メルボルンオリンピックでした。複数の国々が様々な政治的理由で五輪への参加を辞退しました。中国もその一つであり、台湾の独立国としての参加に反発したため、不参加を表明しました。

その8年後、1964年の東京オリンピックでも中国は参加しませんでした。

理由として、IOCが台湾の加盟を認めていたことから、1958年にIOCを脱退し、五輪の舞台から去っていたためです。また中国は、五輪への対抗として開催された「新興国競技大会(GANEFO)」に主力選手を派遣し、IOCとの対立姿勢と示していました。

3回目のボイコットは、1976年のカナダ・モントリオールオリンピックで行われました。

当時、南アフリカのアパルトヘイトへの抗議として、アフリカの22か国が五輪への不参加を表明しました。また、台湾も中国と国交を結んだばかりのカナダに独立国としての出場を拒否されたため、不参加を表明しました。

4回目は1980年のモスクワオリンピックでした。同大会では、前年のソ連によるアフガニスタン侵攻への抗議として、大規模なボイコットが行われました。米国を筆頭に65か国がモスクワ大会へのボイコットを表明しました。

1956年以来、参加国の数が最も少ない80か国となりました。

その報復として、ソ連及び東欧諸国は、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットしました。

その4年後の1988年には、韓国・ソウルで五輪が開催されました。しかし、北朝鮮の首都・平壌で共同開催する案が頓挫し、北朝鮮はボイコットすることになりました。

最も悪名高い五輪として知られる、1936年のベルリンオリンピックでは、欧米諸国の間で実現しなかったものの、ボイコットが呼びかけられていました。

当時、ナチスの指導者・ヒトラーはこの大会をプロパガンダために利用し、ドイツを友好的な国としてアピールし、ナチスによるユダヤ人迫害政策及び膨張主義を覆い隠しました。

それからちょうど3年が経過した後、第二次世界大戦が勃発しました。

 
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