六四天安門事件から35年目の前夜にあたり、中国各地で恒例の治安維持措置が動き始めました。目撃者たちは、中国共産党(中共)が行った虐殺、特に戦車が学生たちを意図的に鉄柵に押し潰して殺した血まみれの場面は、中共の残酷な支配の実態を物語っていると証言しています。
六四天安門事件35周年に際し、香港の舞台劇「5月35日」がロンドンで初めて上演されました。この英語版の公演は、様々な手法を用いて、中共が隠蔽しようとする天安門事件の真実について、多くの人々が異なる角度から理解できるようにしています。
5月28日には、天安門事件を経験した中国の元学者である呉仁華氏が、SNSで事件当時に撮影した犠牲者の写真を公開しました。撮影者は安全上の理由から匿名使用しています。呉仁華氏によると、これらの写真は1989年6月4日の正午に撮影され、中国政法大学の教室だったとのことです。彼と同僚の劉蘇裡氏もその日、遺体を目撃しました。
天安門事件を経験した後、豪州に渡った法学者の袁紅冰氏は、当時の様子について語っています。1989年6月の北京は異常に暑く、袁氏は教師たちの支援団体を率いて静坐デモに参加しました。
袁紅冰氏
「昼間は死ぬほど暑かったが、夜には冷たい風が吹き、6月の夏とは思えないほど涼しく、まるで晚秋のようでした。最初に座り込みハンストを始めた学生たちのほとんどは北京出身でした。私は当時、86年度のクラス担任で、生徒たちはほぼ全員が座り込みに参加していました。参加しなかったのは肖建華だけでした」
1979年から1986年まで、袁紅冰氏は北京大学法学部で学び、その後は教員として同大学に残りました。6月3日の夜8時、軍が都市に入り戒厳令を敷くという発表を聞いた彼は、高熱にもかかわらず、自転車で約1時間かけて駆けつけました。彼が現場に到着した時、軍は既に発砲を始めていました。
袁紅冰氏
「学生たちが天安門広場から走り出てきましたが、中共の戦車が後ろから追いかけてきました。道端には鉄の柵があったため、戦車は学生たちを柵に押し付け、血が噴き出しました。これは決して錯覚ではありません。血が噴き出す音が戦車の轟音よりも大きく感じられたのです」
袁紅冰氏は3、4人の負傷者を背負って病院に運び、そのシャツは血で真っ赤に染まっていました。
袁紅冰氏
「夜になると天安門広場には多くのテントが張られ、そこに滞在していたのは主に外地から来た学生たちで、もちろん北京の学生も少数いました。その夜亡くなったのは主に2つのグループでした。1つは抵抗を試みた勇敢な北京市民、もう1つは外地からの学生です。外地の学生の死亡者数は計り知れません」
袁紅冰氏は、胡耀邦が指導していた時代、中国では10年間にわたって思想の自由化が進んだが、最終的に彼が粛清された理由は、いわゆる資産階級の自由化、つまり思想の自由化を推し進めたことだったと述べています。
袁紅冰氏
「胡耀邦の思想自由化政策のもと、当時の中国はエネルギーに満ち、若者たちの思想にも活気がありました。私たち北京大学ではその10年間、毎晩のように多様な学術講座が開かれ、自由な議論が行われていました。そのような環境の中で、私たちの世代の若者は国に対する熱い情熱と理想主義、そして自由民主主義への道を切り開くための強い意志を持っていました」
中共は今も「六四天安門事件」の記憶を消し去ろうとしていますが、中国で再び「六四」のような民主運動が起こる可能性があるのかと多くの人が思っています。袁紅冰氏は、人民の蜂起だけが中共の専制を打倒する道だと考えています。
袁紅冰氏
「中国が自由民主主義を実現するためには、前ソ連の人々のように全国民が立ち上がり、最終的には人民の蜂起によって中共の専制を打倒するしかありません。国民が目覚めなければ、共産党の専制は決して終わりません。次に起こる中国の全民的な抵抗は、学生ではなく、社会の実業家や知識層、あるいは他の階層の人々が先導して、全国民の抵抗と起義を引き起こすかもしれません」
1989年の天安門事件の際、袁紅冰氏は北京大学教師後援団を立ち上げ、学生運動を支持しハンガーストライキにも参加したことで、授業停止と審査の対象となりました。1994年3月2日には、社会主義制度を転覆させようとした罪に問われ、秘密裏に逮捕され、その年の終わりに貴州に追放されました。その後、貴州師範大学で教鞭をとり、法学院の院長も務めた後、2004年に豪州へ亡命しました。