【三国志】1800年前に開腹手術 曹操に獄殺された医の神・華佗の物語

華佗(かだ)は中国後漢末期に生れた名医で、健康を維持する方法に精通していました。かなりの高齢のはずですが見た目は若者のようで、人々は彼を神のように崇めていました。華佗の治療の腕前は「三国志演義、華佗伝」に記録されています。

慢性的な頭痛に長年苛まれていた後漢の有名な武将の曹操は、華佗の評判を聞き王朝に呼び寄せると、幾度となく治療を受けました。記録によると、華佗が曹操に鍼治療を施すとたちまち頭痛がおさまったそうです。

しかし、華佗は王朝の暮らしに馴染めず、ある日、妻の病気を口実に地元に戻る許しを乞います。地元に戻った華佗は、曹操の王朝に戻るようにという度々の命令に従わず、一向に変える気配がありません。不審に思った曹操が調べさせると、華佗の妻が病気であるというのは嘘だとわかり、怒った曹操は華佗を投獄してしまいます。

王朝の役人たちは、人の命を救う華佗の腕前に免じて出獄させるべきだと訴えました。しかし曹操は「華佗と同じくらい腕の立つ医者など他にもいるに違いない」と言って役人たちの訴えに耳を貸さず、とうとう華佗は獄死してしまいます。

華佗の死後、曹操の頭痛を治せる者はなく、更に自分の息子が重い病で夭折してしまうと、曹操は「華佗を殺さなければ、息子も死の運命から逃れられただろうに」と後悔の念で嘆き悲しんだということです。

鍼治療と手術の達人

華佗は薬の専門家でもあり、数種類の薬草だけで高い効果のある薬を作り、その上、薬草を目分量で調合することもできたと伝えられています。

鍼治療の腕も確かで、ほんの1~2本の鍼だけで病を治しました。華佗は患者に鍼を刺す前に「鍼を感じたら教えてください」と言い、患者がそれを知らせると鍼を抜きます。すると患者は、即座に回復したのだそうです。

現在も鍼治療の主流である背骨に沿った鍼を刺すツボは華佗が発見したもので、後に「華佗の経穴(ツボ)」という名前で知られるようになりました。

華佗は優れた外科医でもありました。もし病が感染症によるもので、鍼や薬の効果がなければ、外科手術の必要があります。華佗は麻酔効果のある液体を飲ませた患者が意識を失うと、開腹手術を行い、感染した部分を切除した後に腹腔を清浄し、傷に軟膏を塗って縫い合わせたそうです。患者は術後4~5日で痛みが消え、一か月以内にはすっかり回復したという事です。

10日以上も続く腹痛を訴えた患者が華佗の元へ助けを求めに来た時は、患者の眉毛と髭が抜け落ちているのを見て脾臓に問題があると気付き、脾臓の傷ついた部分と死んだ細胞を摘出し、軟膏を塗りました。術後、目を覚ました患者に薬を経口で与えると、100日も経たぬうちに快癒したそうです。

聖なる存在から受けた教え

華佗はよく名山を訪れました。ある日、鞏義(きょうぎ)にある山の古い洞窟に行き当たった華佗は、誰かが病気の治療について論議しているのを耳にします。興味を持った華佗は更に洞窟に近付くと、誰かが「おや、華佗が来たぞ。医療の技を、教えてやろうじゃないか」と言いうのが聞こえました。

しかし、もう一方の声は「いやいや、欲深くて思いやりのない華佗のような輩に、我々の技を伝える訳にはいかぬぞ」と反対します。

華佗が急いで洞窟に飛び込むと、そこには木の皮で作られた衣服に麦わら帽子を被った二人の老人がいました。

華佗は老人たちに近付くと「私は医療を習いたいと思っていますが、良い師匠に出会ったことがありません。一生懸命学びますから、どうぞその技をお教えください。必ずやご期待に応えてみせます」と言いました。

「お前に医療の技を教えてやっても良いが、いつかそのために自分の身を落とす事になるかもしれないぞ。人々を地位や財産で差別せず、欲を出さず、苦行にくじかれることなかれ。そうすれば、その技はお前を傷つけることはないだろう」老人はこう言いました。

華佗は老人にお礼を言い、その言葉を胸に刻むことを誓いました。

老人は微笑むと、石の寝台を指差して「寝台の上にある本を持って、すぐにこの洞窟を去りなさい。本は誰にも見せてはいけないぞ」と言いました。

華佗が本を手に取って振り返ると、既に老人の姿はありませんでした。慌てて外に駆け出すと、華佗の後ろで洞窟が崩れ落ちました。洞窟から持ってきた本には、聞いた事もない薬の処方が書かれており、それらの薬は効き目あらたかでした。やがて、華佗は自分の医療の腕が原因で、60才になる前に曹操により殺されます。老人の予言した通りになったのです。(華佗が書いたとされる「中蔵経」より抜粋。)

東洋医学の始祖、黄帝の跡継ぎ

初唐時代の詩人、王勃(おうぼつ)は「滕王閣序」でその名を馳せました。「新唐本王勃伝」によると、長安に住む曹縁は良き友人の王勃から医療を学んだそうです。

「黄帝内経81章序文」で、王勃は医療の技が伝授された順番を記載しています。岐伯、黄帝、無記名の9人、伊尹(いいん)、天乙(てんいつ)、無記名の6人、呂尚(りょしょう)、文王、無記名の9人、易平、無記名の6人、扁鵲(へんじゃく)、無記名の9人、華佗、無記名の6人、黄帝、そして曹縁の順です。

中国医学の起源は天上の神、天帝まで遡ります。天帝が曹縁の師にそれを伝え、曹縁や黄帝へと伝承され、黄帝は雷公に、更には殷と周の王朝へと受け継がれて行ったのです。

この医療の技は2400年前の戦国時代後期に扁鵲へと受け継がれ、1800年前の後漢時代に華佗へと伝わりました。扁鵲と華佗は、黄帝の東洋医学の真の後継者であり、医者の神様として尊敬を集めています。二人は物事を良く見通す目と、見事な手術の腕前を持っていたのです。

著者:スー・リン

 
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